八名信夫の うまいもん紀行


銀座のお新香
(げん)

銀座に泰明小学校という有名な学校がある。
その前の小路を入った所に、【げん】という店があった。
その店に30年以上も通っていた。ママの名前は赤羽げんちゃん。


フライヤーズの頃
ママとは50年前、俺が二十歳そこそこ、
東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)のピッチャーだった時に知り合った。
なんて言うと、何だか色っぽい話に聞こえるが、
げんちゃんは、当時、銀座のクラブ【うさぎ】の女番頭。
気風の良いおねえさんで、世間知らずの俺たちの面倒をみてくれた。
プロ野球パ・リーグ8球団中、万年Bクラスの東映フライヤーズ。
ピッチャーの俺、セカンド稲垣正夫、サード西園寺昭夫。
ワルガキ3羽ガラスが、銀座の一流クラブへ、
どうして遊びに行けたのか分からないけれど。
3000円か5000円を握っては、【うさぎ】へ出掛けていた。
(昭和35〜6年だから、今に換算したら、5万から10万位?)
げんちゃんは、そんな俺たちの懐事情を心得ていてくれて、
丁度良い具合に遊び終わると、上手に帰してくれた。
金のない俺たちは、銀座からフライヤーズの合宿所のある駒場迄、
歩いて帰ったものだった。

ある時、【うさぎ】のママの旦那さんが来ていて、俺たちを気にいってくれたのか、
「新宿の屋台へ飲みに行こう!」と誘ってくれた。
この旦那さん、和服の似合う、粋な人で、一緒に飲んでいると気分が良い。
俺も調子に乗って、「何か歌って」と頼んだ。
そうしたら、なんと都々逸を歌ってくれた。これがうまいのなんのって!
店のお客さんはやんやの喝采。新宿の駅裏の屋台でのことだ。
その夜、合宿所に帰ってから、岡山の親父に電話した。
「親父、中村勘三郎って知ってるかい? 今日、新宿の屋台で一緒に飲んでナ。
“ナンカ歌ってくれ”って言ったら、都々逸を歌ってナ」
と話したら、怒鳴られた!
「お前、ナンテことしてくれたんだ! その人は、日本の歌舞伎界でも
一・二というすごい役者さんなんだぞ!」と。

それにしても、俺たちのようなハタチそこそこの若造選手に!
立派な方だったなあと思う。


「げん」(昭和59年頃)
懐かしい顔が…!!
げんちゃんは、独立して泰明小学校の前の小路に店を開いた。
そこでも俺は、色々な偉い人たちに出会った。
江戸川乱歩さん、松本清張さん、
『酒』の編集長の故佐々木久子さん、大会社の社長さんなどなど。
当時、銀座のクラブで遊べるのは、政界財界文化人でも、
超がつく位の一流の人でなければ通えなかった。
小さいカウンターがあって、
バーテンがハイボールとかカクテルとか洒落た飲み物をつくる。
テーブルは3つ4つ。そこに4〜5人用の椅子。それでいっぱい。
そういうのが銀座の店だった。
一流の人たちは、ふらっと寄って、顔なじみ同士で会話を楽しむ。
お気に入りの酒を軽く飲んで、「じゃあ」と帰る。
ママもバーテンの堀ちゃんも女の子も、いつものように迎えて、
いつものように「又ね」と見送る。心地よい洒落た場所なんだ。
品が良かった。
げんちゃんの店に行くのが楽しみだった。
いつも誰かがいた。どんなに偉い人でも、げんちゃんの店に行くと、げん仲間。
げんちゃんは、どんな人でも、同じように接していた。
わあわあ言って、笑って飲んで、そしてげんちゃん手作りのお新香を食って。
最高だったナア。
げんちゃんのお新香は、ぬかづけだったり、季節の一夜漬けだったり。
「げんちゃん、うまいな、これ」と言うと、
「そおお?」と喜んでもっと出してくれた。

げんちゃんのお新香を再現してみた

「私はネ、水商売というものを全く知らないで、普通の奥さんから入ったの。
でもネ、中村勘三郎さんの奥様、【うさぎ】のママに厳しく言われたことがあってネ。
“なろうとしちゃ駄目。水商売だから、こうしなきゃ。着物は派手に、お客様にはこうしなきゃ、と、
勝手に思って《水商売》になろうとしちゃ駄目よ。
げんちゃんはげんちゃんのままでいいの。
自分をなくしちゃ駄目よ”って」
「自分のままで良いならと、何にも考えないでやってきたら、いつの間にか、
30年も店を続けていたの。不思議ね」と、げんちゃん。

稲垣正夫君 赤羽げんちゃん 西園寺昭夫君
(最近の様子。会うと同窓会のようににぎやかだ)

大人の洒落た銀座が変わっていった。
粋な遊びをしていた大人たちが、去って行った。
げんちゃんも、店を閉めた。
もう、あのお新香は食べられないけれど、たまに銀座に行くと
ふっと、【げん】の店の方に足が向いてしまう。

※げんちゃんの糠漬け…50年以上前、名古屋から上京して来た時、
ご主人と一緒に、糠床を持って来たそうだ。
「糠漬けも、愛情よねえ。毎日、かき回すの。
水があがって来たナと思ったら、糠を加えて。昆布や唐辛子もちょっと入れて。
面倒がらずに、毎日かきまぜてあげるの。ビールをちょっと入れても良い。
そうしたら、毎日おいしい糠漬けをいただける。
朝、茄子やきゅうり、キャベツ、何でも季節の野菜を入れて。
夕食には、もうおいしいわよ。」と教えてくれた。


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